映画『沈黙 -サイレンス-』

遠藤周作の原作『沈黙』の映画版。アメリカでの映画化と言うだけでなく、あの名作『タクシードライバー』や『ウルフオブウォール・ストリート』の監督マーティンスコセッシがというのでも驚きだが、文化人の間でも評価が高い様で、映画としては万人受けする様なものではないが、こういう作品としては珍しく多くの人に見られている様だ。

誠実に描かれた米製日本映画

170分という上映時間は長いが、その長さを感じさせない重厚さは、原作のパワーもさることながら、スコセッシの緻密な設計と、この作品に対するリスペクトの現れなんだろうと偉そうに思う。

なんて言い方をすると、偉そうな感じがして観る人を選びそうに聞こえるかもしれないが、万人に理解できると同時に、アメリカ大統領にトランプが選ばれ明確な差別を打ち出している様な“現代”において、誰もが観るべきであり、考えるべき問題を丁寧に描いた作品である。

三者構造に人間の性をみる

ざっくりとした内容は、キリスト教の普及に来た宣教師と、キリスト教が禁止されている日本で信仰する日本人と、取り締まる役人の三者構造。こういう言い方をすると敵は役人で、この役人が最も悪い存在として描かれるのが普通だ。

事実映画をわかりやすくする構成として、序盤の役人は弱気を挫く悪代官の様に描かれているとも言えなくない。

しかし、映画が進んでいくにつれ、三者三様のエゴと主張が現れ、一概に誰が悪いなんて断罪する事はできなくなる。むしろ個人的には宣教師が悪の元凶とも思えなくもない。

キチジローが表す試練

具体的な話は述べるつもりはないが、神の使徒として存在しようとする宣教師も所詮人間であり、また若く無知で未熟だと思わざるおえない。その宣教師に対して、その未熟さを試す様に現れるのが、ユダでありキチジローだ。

このキチジローは、大事な場面で現れつくづく宣教師であり観客である我々に失望をもたらす。汚くやらしく、それでいて時折見せるピュアな眼差し。天使であり悪魔の様な存在はどこか異世界の存在であり、私たちを惑わせるためにいるかの様だが、まさしく人間とはこういうものである。

キチジローは一般人の写し鏡

映画の中ではこのキチジローは、特別な存在の様に見えるが、悪の姿もピュアな姿も誰もが持つ性質だ。友人関係には良い人が、知らない人には無関心なんて事はよくある話で、誰しもが汚い面も良いもんも持っている。しかし、誰しもがそれには自覚的ではない。

だから、観客達は達観した立場でキチジローを蔑む様に見下す訳だが…。
と、ここから先はネタバレというか、個人的にはこの作品の本質の様に感じるので述べない事にしようと思う。気になる人は是非みて感じて欲しいし、出来れば、多くの日本人が観るべきであり、そして学ぶべきであると思う。

こういうものを教養といい、いわゆるマナーの悪い中国人が持つべきものであり、トランプ大統領が持つべきものなのだと思う。

と、非常に偉そうな言い方をしましたが、こういうことってわかっているつもりでありつつも、油断をするとつい甘え怠けてしまい、その本来誰もが持つべき人間性をおざなりにしがちなので、戒めとして時折思い出さないといけないなと思わされる様な映画でした。

 

http://chinmoku.jp/

 

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